昭和四十七年六月十三日 朝の御理解
X御神訓 信心の心得 「神は声もなし、形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし。 疑いを去れよ。」
疑わば限りなし恐るべしと。信心をさせて頂いておって、恐ろしいとか、恐いとかいう事はないと。今日私、御神前に出たら、フランケンシュタイン、そして生首がゴロゴロころがっておるところを頂くのです。
それはたしかに身の毛もよだつようなこわ-い映画ですよね。それこそ身も凍るような恐い映画だったと思います。例えば、そういうですね、恐い事があっても、信心をさせて頂いておればもう、一切神様の御演出と知らなければならん。そして力をつけて下さる。度胸を作って下さろうとするお働き以外にないのです。
ですから、そこでいろんな問題を通して、度胸が出来る事やら力が出来る事やらがね、もうその力だけのおかげを次ぎには受ける事になるのですから、信心を進めていく上にはね。もう実際に信心を頂いておればです、そうですよ。恐るべしとおっしゃる。恐るべしという事は、どういう事が恐るべしという事かと言うとそれをわかっておりながらね、疑う事が恐ろしいのです。
神様の働きと思いながら腹を立てる。神様の働きと感じながらイライラする。これはどういう事になるかというと、信じておるようであって、わかっておるようであって信じてないから、イライラしたり、腹が立ったりするのですよ。
ですからここんところは、日々お取次を頂いて起きてくる事だから一切神様のお働き、一切神愛として頂けれる稽古をしとかにゃいけん。
昨日、美登里会でした。昨日は午前中から集まられて、昨年私が青年教師の方達に二日間お話をしました、その一日目のがまだテ-プに残っておりましたから、丁度二時間あまり聞ける訳です。丁度、私の生い立ちのところから、説明してありますがそれを皆さん聞いておられました。それで聞き終わった後に、どこをどういうふうに頂かれ、感じられたかといったような事をいろいろそこから話を進めて頂いた訳です。 どんなに心配事があっても、例えば苦しい事であっても、神様に本気で打ち向わせて頂けば、もう理屈じゃない。あんなにも心配であったものが、あんなにも不安であったものがです、嘘のようにとれて反対に有難くて有難くてというものを頂いておる箇所がいくらもあります、お話の中に。
だからその辺のところはもう、理屈じゃない。御本部へ月参りをさせて頂いたくだりのところがあります。はじめて私が神の声を聞いたいきさつやらがお話の中に。
そういう時にです、私が、一にも押し、二にも押し、三にも押しとこういわれるけれども、一に押し、二に押し位ではおかげは受けるけれども、最後のところまで押していかなければ、ここんところのおかげは受けられなかっただろうと結論致します。 例えば弟の戦死の通知を受けまして、一家の者が悲嘆にくれました。けれどもね、これ程例えば、まあ、その時分の信心で言えばね、一家をあげて、これ程神様にお願いさせて頂いておるのに、どうしてこんな事が起こっただろうかと、そこに大きな疑問が生じて、と言うて信心を止める訳じゃないですから、そこのところがね、こういう訳で弟は戦死したんだぞと、私共の言い分というのも成程、例えば七年間も兵隊に行っておって、もう終戦の十五日前に、戦死しているんですからねえ。八月十五日が終戦でしょう。それに七月三十日なんです。戦死しとりますのが。
だから神様、もう十五日どうにかならなかったですかというような、それでも神様が命をお召しにならなければならないというなら、訳があったに違いない。その訳が知りたいというのが、丁度、たまたま親先生がお月参りなさるそれに「大坪さん御本部参拝はどうか」と言われて「ハイ」と答えて、まあ、実際は月参りでも出来るような事じゃなかったですけれども、その弟の戦死の通知を受けた月から、月参りがはじまった。
いつもお話しますように、とにかく、駅々で降りなさる復員の軍人さん達を見まして、リュックをかろうて、駅々であの頃はもう、どんどん復員船が着いた。その船から上がって、それぞれの地方に帰られる復員の軍人さん達を見るたんびに、あの中にひょっとして弟が入ってでんおらんじゃろうかというような気持ちがいっぱいだった まあ、あちらへやらして頂きまして、ひと晩教祖さまの奥城の前に座らせて頂いてもう、とにかく神様からお知らせを頂きたいと思った。それこそ、ひと晩中頑張らせて頂き、御祈念し続けたけれども、それこそ神様のかの字も勿論頂きませんでした。 けれどもね、控所から帰らせて頂きますと石屋のところで、親先生が「大坪さん今度は何かおみやげができたか」と前から呼びかけられるのです。そん時に「はい、出来ました」と私はそう答えたんです。実際はおみやげひとつ買ってる訳じゃないですけれども、そう答えた瞬間でした。もう私の五体中に何か電気がかかったような気がしました。そしてそれからもう有難とうして有難とうして、もう見るもの聞くものが有難いんですねえ。これはどうした事じゃろうかと思うけれども事実有難いんです。 私共が金光駅に着きましたら、丁度京都行きの普通が入ってきましたが、そこでもやっぱ復員の方達が十四、五名リュックをかろうて降りてきました。
もう、そん時に今までの前日まではね、あの中にひょっとし弟がと探す気があったのがね、もう一人一人に行ってから、本当に御苦労さまでした、御苦労さまでしたと言いたいような衝動が感じるんです。そしてあるものは有難いばっかりです。
あの時分に、汽車には窓から乗せて貰うという中をおかげで席があった。席があった事が有難かった。又お年寄りが見えた時、席をゆずる事が有難うしてこたえじゃった。車窓から穂が出る寸前の田苗をみると,もうそれが有難とうして有難とうして、もうどうにもしょうがなかった。
だからもう理屈じゃないんだなあという事です。今までいうなら、どういう訳で弟が戦死したのですか、しかももう十五日おかげ頂いときゃ無事に帰還出来たのに、そこんところはどういう訳ですかと、訳は聞かんなりにです、只、その事が有難くなったんです。これはもう事実だからしかたがないです。訳を聞かんでもいいです。訳を聞いても合点がいかん時はいかんでしょうが。こういう御神意ですと頂いてもまだ合点がいかん。
だからとても、こげな中に、しかも弟が戦死してから、御本部参拝じゃろかいというて、私が押して押して押しぬかなかったら、そこは頂けなかったと思うですよ。
私がはじめて四神金光様の前で、いわゆる神の声を聞いたのもやはりそうでした。 丁度久留米の初代のお立ち日にその当時、千本杉にありました奥城で久留米の先生方が集まられ、霊様にお礼申されました。そこで話合いが、私ははじめてそこに出らして頂いたですけれども、今月の月参りは今日しましょうやというのが先生方の中で出来た。ところがうちの親先生はある都合で出来なかった。それでもうみんなが行かれるのだから今月は御無礼せにゃ仕方がないと親先生がおっしゃいますから、私はもう本当に旅費が出来るなら親先生に持って行って参って下さいと言おうごたるですけれども、それも出来ませず、だから、とにかく福岡へ帰りました。
けれどもお金がある訳じゃありませんけれども、どうでもこうでも、お参りさせて頂きたいという一途の思いで帰らせて頂いたら、丁度私の家の前に、一台の自転車が止まっておって、今来たという人、丁度私が帰ったのと一緒になったから、聞かせて頂いたら布団を作りたいと、後には綿を乗せておられた。そして、何か布団の表になるようなものはないだろうかと。
もうお商売も止めておりましたから、何にもありませんでしたけれども、売れ残りの半端のこっぱげとるごたるとを思い出してから、押入れから出したら半端が一反出てきました。こげんとでいかんじゃやうかと言うたら、いや-これで上等と、いくらやろうか、もうとにかく、御本部参拝と私のお初穂さえありゃよかと思うて、もうそれだけ、それだけでよかじゃろうかと、もう、よかどころじゃなかと、その金を頂いてそのまま走ったら丁度、久留米の方から汽車が着いて先生方が大坪さんここ、ここと言うておらびなさるようにおかげを頂いた。
それで久留米地圧の先生方と一緒にお参りさせて頂いて、その時分の準急行券というのが百円でした。帰りにはその準急で帰りますから百円だけとっとった。後は全部お初穂した。そのお初穂もいつも家族中のお初穂するのですけれども、もう自分のお初穂だけしかございませんせんですから。
そして最後に御礼に出た時に、神様から今かたら思うとあれは思わせだったろうと思うのです。心の中に響いてくるのです。「親の事を大事に大事に言うお前が、今度の御本部参拝には、両親のお初穂も出来なかったじゃないか」という事を頂く。
それでね、私はあ-、ほんなこつと思うて、もう準急に乗りさかせにゃこの百円はいらんとじゃから、もうこれは普通で行こうと、腹が決まってそれから先生方を駅まで送って、先生方は一緒に乗れと、どうかなるけんでと、私が切迫してる事はみんな承知でしたから、乗んなさい、どうにかなるがと言われましたけれども、いいえというて辞退して、先生方を送ってから又、御広前に出らして頂いた。そして残っとる百円を包んで両親の名前を書いてお初穂させて頂いた。
そん時にはじめて金光様からお書き下げを頂いて、もうそれこそびっくり仰天。
有難とうして、有難とうしてこたえん訳ですよね。その有難うしてこたえんで奥城に又出らして頂いて、それから、奥城で御祈念が終わって四神様の前に出た時に、はじめて神様のお声を頂いた。もうその時の事を晴天霹靂という言葉でいつも表現しますが、もう本当にそれこそ、晴天霹靂、びっくり致しました。
それから、もう、それこそ大変な修行がはじまった訳ですけれどもね、もう、矢つぎばやに神様がいろいろと、いうなら話かけて下さる。
例えば、そういう私のお話の一場面の中からです、そん時に私がそんなら心の中にそう頂くけれども、帰りの急行券でもお初穂するのが本当ですけれども、神様すみませんと言うて帰っとったら、ひっとして今日の合楽はなかったかもしれん。
もうその時にね、例えば、先生方がお金出してやるけん来なさいと言うて言うのに一緒に乗んなさいと言うのに乗っとったら、とてもお書き下げを頂いた事もなかったろう。神様の声も聞く事は出来なかっただろう。
そういうおかげを下さる前に、そいう神様の働きというものを、勿論わかりませんけれども、とにかく押しの一手であったという事。一にも押し、二にも、三にも、もう押して押して押しまくっていくところに、一にも押し、二にも押し、そこでおかげを受けてもです、その力にはならない。神様をいよいよ信ずる力には。その三つのところを押していったところに、私は力を受けたと、自分で思います。
昨日も皆さんのお話を聞かせて頂いて、もうそれこそ最近言われとるところの、自然と偶然が一致しておるように、自然の働きの中にそれこそ、偶然と思わなければおられない程しのおかげをね、もう本当に頂いて、おられる体験の発表がございました 嘘じゃない本当にああた方は頂いとるなという訳です。
吉井の熊谷さんなんかのお話もそうでした。もう最近お恥ずかしいですけれどもと言うて、話されるのですけれども、この前の月次祭にはお供えを買わせて頂くお金がなかった、というて娘と二人暮らしですから、娘さんが銀行に勤めておられるから、どういうもんか皮肉なのか、もうそれこそお金がなかばいというとすぐ出してくれる娘が、出してくれなかった。そん時ばっかりは、だからもういっぺん言うて出してくれんなら、吉井の娘のところに行こかと思うたけれども、神様にいろいろとお願いさせて頂いて、丁度お金が九百円出来た。それで果物屋に行って、いつもお月次祭にお供えされますから、ところがその日の果物は、いつもの半分位、びっくりするくらい安かった。だからいつもの通りのお供えが出来たと、九百円で。というようなお話をされておりましたから、私が熊谷さんに申しました。あのね、例えば五百子さんにお金がないばいといっぺん言うて、言われんなら、もうままよという心になりなさいとその前にですね、果物買いに行って帰って来たら、速達がきとった。息子さんからの速達、それにはあの、賞与を頂いたからと言うてまとまったお金を送ってきた。
もう神様のお働きには恐れいってしまうという体験談なんですよね。果物もあれだけの事でいつものようにお供えが出来た。そしていよいよない今日は神様の上に上げてあるじゃろうといつもお供えしておられる訳です。それを熊谷さんが頂かれるそうです。もうそれ知ってか、知らんでか、知らんふりしてから、もうやんなさらんそうですもん。だからそういう話をなさいましたから、私も話した事ですけれども、例えばね、そういう時に、そんなら五百子さんにね、あんたがね、嫁入りしたらあんたが嫁入りした先までお金もらいに来る訳にいかんから、あんたがお金くれん時には、もうあんたが嫁入りしたと思うて、稽古させて頂きよりゃこげなおかげ頂くようという、おかげ話をしなさいと私は申しました。五百子さんに。
私はここんところに大変なひとつの度胸がいるとう思うですねえ。今までは娘さんに言うてもくれんならば、それこそもらわんでもよいという腹を作って、神様にお願いさせて頂く。いうならば、もうむしろこの人が嫁入った時の稽古をさせて頂きよると思うて度胸を作んなさい。
これは金銭だけの事じゃありません。一切の時にその腹を作るという事が度胸です 困った時に、またどうなるじゃろうかと、不安な事に直面させられた時にです、そういう度胸を頂く時なんです。神様は声もなければ形も見えないのですから、そのままいったらどげんなるじゃろうかというような不安もありますけれども、その不安があるという事は、まだ。神様を疑っておる時だという事。その疑っている時が恐いのである。そん時にイライラしたり、腹を立てたりする事が恐いのである。
昨日皆さんにも聞いて頂いたんですけれどもね、私がそれこそ皆さんにも頂いておられるように、自然の働きの中に、本当に偶然と素晴らしいタイミングだなと思われる程しのおかげは、私自身が頂いておる。それを皆さんに見て貰って、皆さんにもこういうおかげが受けられるというて、お話しておるような事は、とてもおそらく私一代だろうと、こんなに間違いのない働きを表すという事は。
だから私がまあだ、こうやっておかげを頂いておる時に、本気で昨日の美登里会の方達じゃないけれども、そういうようなおかげを頂いておかないと、おそらく私が死んだら、こげなおかげを表していく事は出来まい。話には残るだろう。けれどもこんなにも間違いのない働きを表していく事は出来まいから、いわゆる私が居る間にそこんところをひとつマスタ-しとかにゃ、体得させて頂いとかにゃいけんと言うてお話したんですけれどね。
事実そうだと、私は思うです。同時に例えば金銭関係だけじゃない。人間関係だけじゃない。どんなところに立たせられてもです、そこに不安ですむ程しのおかげを頂かなきゃならん。そん為には、常日頃に、そこんところの間違いのない働きを表せるだけの信心を頂いとかにゃいかん。
こんなにも間違いのない働きの中に、起きてくる事だから、これは恐い事ではないんだそと。これはここでイライラしたり腹を立てたりする事じゃないんだぞと、わからせて頂く信心を繰り返し積んでおかなければならない。そしてそこんところをですいわゆる一にも押し、二にも押し、三にも押しで神様へ向うていくところからです、神様のこういう御神意であった、神様は訳はわからんなりに、このような安心と喜びを与えて下さる為の事であったと、私がわからせて頂いたように、又は神様からお知らせを頂けれるような働きを頂く事の為のその事であったと後で、気づかせて頂いたように、そこんところを押して、押して押しぬかなければそこんところは頂けないでしょうが。只、不安のまま何とはなしに心にすっきりせんまま、そういう信心ではです、いよいよの時に立たせられた時に、度胸が出来ません。神様のお働きの中にみ無駄な事が絶対あろうはずはないと信じさせて貰うて、自分の不安やら腹立たしいとかイライラがある時には、まあだ、まあだそこんところの信心を極めてないと思うて、そこをもういっちょ神様の方へ向かって押していくのです。
でないとです、それがここでは、恐るべしとおっしゃっておられる事がです、神様を疑うた事と同じような状態が恐ろしいのであって、ところがイライラもする腹も立つ、けれどもこれはまあだ、私の信心が足りんなと思うて、そこんところを押して、神様の方へ向かって参りますとです、それは例えば、それこそ生首がゴロゴロしとるような状態の中に立たされてもです、フランケンシュタインであって、成程、この世は困ったとか、恐いとかしかないんだなという事をです体験させて頂く。それが力なんだ。恐るべし疑いを去れよと。そげん疑いを去んなさいと言われても去れるもんじゃない。どうして、どうしてが起こってくる。そういう時にはです、私が御本部へ月参りをはじめた一番はじめの時のような、もうとにかく神様の方へ押して、押して押しまくるような信心でおかげ頂かせてもらうところから、理屈ではない、それこそ心にすっきりして、心が安らぐだけではない。どこから湧いてくるかわからん喜びを神様は与えて下さる。
ここんところを、ひとつこうする事が本当だと思ったら、本当だと思うところをやって、やってやりぬくところから、神の声をはじめて聞かせて頂くというようなおかげにもなったという事。
熊谷さんのお話でもそうです。今度のように例えば、いよいよお月次祭だというのにお金に不自由した事はなかったと。娘さんから貰えない。どうしょうかというようなところに、立たせられた時に神様にお縋りして、おかげを頂いて、本当に神様の御都合ちゃ恐れいる。いつもの半分の値段のような果物が安うして、三宝一台の果物のお供えが出来た。しかもその後には思いもかけない送金のおかげを頂いた。
だからそういう体験を頂いてあるのであるから、そんならこれからとても娘さんにそれはもう、お金がなくなったばのといっぺん位は言うてもよかろうけれども、二度三度は言わんぞと、そして、私はそれを五百子さんに話なさい。あんたが忘れちくれん時は、私は二度と言わん事にしとるが、もう、あんたが嫁入った時に嫁った先まではお金はと貰いに行かれん。その嫁入った時の私は稽古をさせて頂きよるが、けれども不思議にこげなおかげを頂くばいのと言うて、五百子さんに話すなら、五百子さんも感じなさらんはずはなかろうと思う。いわゆるそれは神様をです。
そこんところには、やはり度胸がいる。あんちこっち借りまわる事もいらん。誰に頼む事もいらん。そんなら決まった収入がないから、どっから入るじゃれという事が不安である。けれどもそんなら、神様がどこからか、どうかしておかげを下さるという事実をです、体験させて頂いたら、それが力になる。それにはそこを頂く為にはです、それこそ押して押して押しまくっていく信心からしか生まれてこないという事なんです。私は今日は、疑えは限りなし、恐るべしというところをね、皆さんは疑うておるという方はあありますまい。朝の御祈念でも参っておられる方達は神様を信じておられます。けれどもね、あなたが腹が立ったり、不安であったり、心配であるとするならですよ、それはもう疑うておるとも同じだというような、いうならば、厳密に言うところの疑いというところを、今日は聞いて頂きました。
だからその伺いをそんなら、晴らす為に、おかげを頂く為に、もう一にも二にも三にも押していくという信心からです、それがなくなって、恐るべしというのは、その疑うといううことが恐ろしいと言うておられるように、いうならば腹を立てるという事が恐ろしい、イライラする事が恐ろしい、心配するという事が恐ろしいという事になるのですよ。厳密にいうと。
だから皆さんが神様を信じておるけれども、もうそれは、厳密なお徳を受けて力を受ける信心の進め方のところを今日は聞いて頂いたんですよね。
どうぞ皆さんの信心生活の中から、どんな場合であっても心配せんですむ、不安に思わんですむね、信心、腹を立てんですむ、イライラせんですむところまで神様を信じて疑わない信心を頂いて頂きたい。
完璧にという事は出来ませんけれども、心の中にイライラしたり腹が立ったり、心配であったり、まあだ神様をこれ程自分は疑うておるんだと思うてね、そこんところから、もう一段と信心を、いわゆる前向きに進めていくというおかげが頂かれたら、そこからひとつ、ひとつ、成程と合点の行くようなおかげになってくる。
そしてぞれがいよいよ積み重ねられていくところにです、絶対のものが生まれてくる。いわゆる絶対信、絶対信の信心を頂いての日常生活、そこには、不安もなければ心配もない。いわゆる勿論恐いものもない世界が開けてくる訳ですね。
どうぞ。